とちぎ教科書裁判通信

大田原市の扶桑社版歴史・公民教科書採択取り消し裁判の私的記録集

2012-01

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「月刊ボランティア情報」11月号 市民文庫書評 『1億3000万人の自然エネルギー』飯田哲也著 

『1億3000万人の自然エネルギー』飯田哲也著 講談社 本体1200円(税別)

評者 白崎一裕

本書は、福島第一原発事故を受けて、いま、まさに話題の中心のひとつ「自然エネルギー」についてその本質をとてもわかりやすくビジュアルに、そして、具体的資料をあげて解説した入門書の決定版といえる。著者は、飯田哲也さん(環境エネルギー政策研究所長)だ。長年、北欧のエネルギーデモクラシーに注目しながら、自然エネルギーにシフトした脱原発社会の構想を練り上げてきた第一人者である。

自然エネルギーというと、ソフトバンクの孫さんのような大規模太陽光発電(メガソーラー)の提言に目がいくかもしれない。しかし、ちょっと待ってほしい。そもそも、原発事故は、なぜ、おきたのか?原子力そのものが生物の進化となじまないのはもちろんだが、産業技術としては根本的な欠陥をかかえていた。それは、集中・独占・秘密主義という三点セットだ。日本の電力供給体制は、9電力体制(ないしは、10電力体制)という大規模電力会社の地域独占体制によって構築されてきた。そこに、大規模な資本(マネー)と権限が集中してきたのだ。これは、「原子力ムラ」という言葉に象徴的なように(ただし、江戸期のムラは閉鎖的ではない)、エリート官僚集団が情報を秘密にして市民に公開しないまま
独善的に進めてきた技術開発を促進してしまうことの原因ともなる。

たとえば、みなさんは、日本の地方には57か所の町村が100%以上自然エネルギーでまかなわれ、その町村のうち26町村が食料自給率でも100%を超えているという事実を知っていただろうか(ちなみに東京の食料自給率は1%!)。こういう具体的な地域の情報を調べ・広めることなく、ただ「電力不足です」「原発をとめると日本の産業はダメになります」という脅しの文句ばかりが目立っていたのではないだろうか。福島第一原発事故は、そういう歪んだ技術開発のもとで無理やりに経済成長してきた日本社会に根本的な転換をせまっている。

これからは、成熟社会をめざして地域小規模自給自然エネルギー体制がエネルギーのあるべき姿の基本となる。それは、エリートの独占ではなく広範な市民の参加により運営される。デンマークの風車発電は、その85%が地域の住民のもので、地域社会の意思決定と参加がなければ運営できない。まさに市民風車なのである。こいう世界の先進事例に学び、従来のエネルギー体制を自らの暮らしのリズムに合わせた、民主主義エネルギー体制に転換していこう。そのための明快な指針を本書は示してくれる。

「月刊ボランティア情報2011年9月号」 市民文庫書評

『市民科学者として生きる』高木仁三郎著 岩波新書 定価700円+税

評者 白崎一裕

福島第一原子力発電所事故後の脱原発の世論の高まりの中で、あらためて、高木仁三郎さんのお名前を見聞きすることが多くなった。高木さんは、チェルノブイリ原子力発電所事故を直接の契機として高まった1980年代後半の「反原発運動」のリーダーとして活躍した核化学者である。明晰な論理と冷静な態度で原発推進派からも敬意をもってみられていた。その高木さんが亡くなられて10年余が過ぎようとしていたところで、彼がもっとも危惧していた炉心のメルトダウンを伴う原発事故がおきてしまった。泣き虫の評者は80年代の前半に高木さんを囲む小さな科学論の勉強会に参加していたことを思い出すとどうしても目頭が熱くなってしまう。あのときに、もっと高木さんに学び、どうして原発をとめられなかったのか?という後悔の感情も同時に湧いてくる。その後悔の念を超えて、いま再び高木さんに学ぼう。「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」高木さんは、この宮沢賢治の言葉に出会い、そして、自らの思想の糧とした。高木さんは、大学の研究者の職を辞め、原子力資料情報室という市民団体の設立にかかわりその事務局長の立場にあった在野の科学者となる。「市民科学者」という言葉は、賢治の思想を深めた在野の科学者としての活動の到達点である。一口に科学と言っても、それは「アカデミズム科学」「産業化科学」「市民科学」の三つに区分される。科学研究の成果が学者(アカデミズム)の身内の評価で定まるのか、それとも、経済・産業界の評価で定まるのか、それとも、民主主義を成熟化しようして自覚的に行動する市民によって評価されるのか。この最後の市民の評価にこたえる科学を志向するのが「市民科学者」だ。こんどの原子力発電所の事故でも、マスコミなどで、多くの科学者・専門家といわれる人々が発言をしていた。しかし、それらの発言は、本当に信頼に値するものなのか?電力会社の都合のよいことしか言っていないのでないか?という疑問を持った人も多いだろう。アカデミズム科学や産業化科学ではこの疑問には答えられない。疑問を払しょくするためには、ひとりひとりの市民が尊厳と希望をもって生きていくための指針となるような科学研究の成果が必要なのだ。高木さんは、反原発運動を展開する地方の市民・住民と共に運動を闘う中で、市民科学の実践を試みてきた。その市民・住民の生き方や志が科学研究に反映されるとき、そこに!市民科学者は存在する。高木さんは、この市民科学の営みを後輩たちにつなぐために市民科学者を育てる「高木学校」を設立した。いま、フクシマ後の世界で、ひとびとがささやかな希望の光を見出すための提言を、高木学校の卒業生たちが語り始めている。評者も活動する領域は違うが、この市民科学者の思想を息絶えるまで受け継いでいこうと思う。

育鵬社の教科書を採択 大田原市教育委員会

さて、今後、どうしますかね。学校論・教育論の本筋として議論したいんですが。若手の市民との協働に期待していきますか?
過去の反対運動は、世論喚起に失敗していますし、具体的な力を発揮できていません。裁判も含めて、いままでと
違う展開を模索していきたいです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜以下、下野新聞7月16日〜〜〜〜〜〜〜〜〜

育鵬社の教科書を採択 大田原市教育委員会
(7月16日 05:00)
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 大田原市教育委員会は15日、湯津上庁舎で教育委員会を開き、来春から市立中学校で使用する歴史、公民分野の教科書について、「教科書改善の会」が執筆した育鵬社版を採択した。育鵬社は扶桑社の子会社。同会によると「現時点で市町村単位の採択では初めて」という。

 前日の採択協議会で答申された各教科の教科書について審議したが、質疑は育鵬社版の是非に集中。委員6人全員が意見を述べた。「日本人として自国に誇りを持てるものを」との肯定意見が出される一方、「日露戦争で必要のない記述もある」などの反論も出た。採択は委員長を除く5人で行われ、賛成4人、反対1人だった。

 記者会見で新江侃教育長は「郷土や国を愛する気持ちを持ち、国際社会で日本の素晴らしさを訴えるような子供を育てたい。育鵬社がベストと考える」と述べた。

 委員会後、採択に反対する市民団体が市教委に抗議文を出した。

 大田原市は2005年度に県内で初めて扶桑社版教科書を採択した

月刊ボランティア情報2011年6月号・市民文庫書評『経済復興〜〜大震災から立ち上がる』岩田規久男著

『経済復興〜〜大震災から立ち上がる』岩田規久男著 筑摩書房 定価1200円+税

評者 白崎一裕

本書のウリは、ずばり「国債の日銀直接引き受け」を震災復興の財源に!ということだ。
これをアカデミズムの経済学者が緊急提言している。

震災復興には、被災地の当事者の立場にたったときに、様々な「もの・こと・ひと」が必要なことは言うまでもない。そして、それをささえるのは、やはり資金(マネー)なのだ。「いや、金だけではない」という人もいるだろう、評者もそう思う。が、しかし、マネーは「もの・こと・ひと」を円滑に動かし、交流、移動させる「切符」のようなものだと考えると、その必要性が理解されるのではないだろうか。そのマネーをどこから調達してくるのか。政治の世界でも、その財源についての議論がやかましい。

増税?節約型の緊縮財政からの捻出?国債発行による借金?これらの意見が常識的なプランだろう。だが、考えてもみよう。日本経済は、3・11震災がなかったとしても、すでに長い間のデフレ経済で、加えてリーマンショックの不況の波をかぶっていた。そんな中でまことしやかな「連帯税」という名前をつけても、増税は、このデフレ経済をさらに悪化させるのではないだろうか。ましてや、社会保障費などを削減して財源にするということも、社会的弱者をより弱者にしてしまうだけだろう。そして、すでにGDPのほぼ二倍の借金を重ねている日本がさらに赤字をつみあげる国債を発行し続けていることが可能なのかどうか怪しいかぎりだ。こうなると常識的なプランはことごとく限界があることがわかる。震
災復興費用は、直接の被害総額試算でも総額20〜30兆円という莫大なもので、原発関連費用や間接被災費用もいれこむと50兆円(GDPの10%)にもおよぶものとなる可能性がある。

この莫大な費用を捻出する究極の方法が、著者の提案する「国債の日銀直接引き受け」なのだ。通常の国債発行による民間銀行などの引き受けの場合には、国民にまわるマネーの量に変化はない。しかし、国債日銀引き受けの場合は、国民にまわるマネーの量が増える。これは、国債発行という手続きを踏んだ、「政府紙幣」の発行と同じことになるのだ。これと同じことをやった歴史上の成功例が、昭和恐慌(1930年末〜32年)をいち早く解決した、高橋是清の高橋財政だ。著者は、この高橋是清の「国債の日銀直接引き受け」を学ぶべきだという。この歴史の教訓は、日銀引き受けはハイパーインフレをまねくだとか、日銀引き受けは禁じ手の方法だという俗説を粉砕する。加えて、著者はインフレが心配なら「イ
ンフレ目標値を3〜4%」にして日銀にその政策義務を負わせれば問題ないとも説く。おそらく、これを読んでも懐疑的な人もいるだろう。しかし、マネーのありかたを私たちひとりひとりの市民に取り戻す最初の入り口が、著者の主張なのだ!と理解していただき本書をぜひ手にとってもらいたい。

ベーシックインカム・実現を探る会のメルマガから

【1】『「POSSE〜特集マジでベーシックインカム!?」に応答する その2 萱野稔人さんの場合。』

ベーシックインカム・実現を探る会 代表 白崎一裕

萱野さんへの応答を重ねていこうと思い、前回のメルマガでは、市民教育の入り口で終わった。BIと教育および市民教育の話へとつないでいこうと考えていたが、その前に萱野さんの問題提起には重要なご指摘がもうひとつあるので、そちらを先に論じておこう。その方が、BIと教育の話をする際にも都合が良さそうである。

萱野さんは「国家による公共投資がなくても市場経済そのものは回っていくとー無意識にせよー考える点で、BIは資本主義を市場経済に還元してしまう、〜(後略)」と述べている。このBIは資本主義を市場経済に還元してしまう、というところの論理はいまひとつ分かりにくいのだが(BIを公共投資と考える論理もあるだろうと思う)、たしかに、BI論者の大部分が、資本主義・国家・市場の関係についての弱点を有しているのは事実だと思う。また、BI論者に限らず、資本主義と市場経済をごっちゃにする論者も多い。例外としては、関曠野さんの社会信用論を基本としたBI論(および関曠野さんの資本主義論)があるが、今回は、関さんの論理にも学びつつ、萱野さんの問題提起を受けて、自分なりの国家・資本主義・市場とBIの関係について考えてみたいと思う。

この関係に含まれる論点は、大きく分けて、ふたつある。第一は、国家(国家権力)とBIの関係。第二に、資本主義論としての国家・市場・BIの関係である。まず、第一の論点について。萱野さんは、「BIは、「労働からの解放」は国家をも労働から解放してしまうんです」と述べている。これは、私なりに解釈すれば、国家の「義務」を限りなく縮小してしまう、ということだろう。確かに、新自由主義的なBI論はこの立ち位置だ。しかし、筆者は新自由主義的BIについては反対である。すなわち、BIによって国家の「義務」を限りなく縮小することに反対ということである。ここで問題になるのは、国家の「義務」とは何だろうか?ということだろう。これを論じるためには、国家論(あるいは憲法論)にふみこまなければならないが、ここでは、国家の義務とは国民の人権擁護であり、国家はそのための権力行使機関であると定義しておきたい。筆者は、人権ということを基底にして、BI給付を受け取る権利は基本的人権だと主張してきたし、また、人権擁護という点からいえば、BIという普遍的現金給付も福祉的現物給付もどちらも必要な場面がありうるとも主張してきた。ただ、これには、反論もある。

たとえば、ニッセイ基礎研究所の遅澤秀一さんは「人的投資としてのベーシック・インカムの可能性について」のなかで、誰もがもつ自然権に立脚するBI理念は思想的あるいは政治的立場を異なる人々を納得させることは難しいだろう、と述べている。確かに「自然権」のみを振り回すだけでは、BI反対論者は納得しまい。

http://www.nli-research.co.jp/report/research_paper/2010/rp10_004.html

筆者はその「自然権」を補強する論理を最近見つけた。それは、フェミニズム系の論者エヴァ・フェダー・キティの『LOVE'S LABOR Essays on Women, Equality,and Dependency(『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』白澤社発行・現代書館発売)である。

キティは「自立という虚構にメスをいれる」といい、「誰もがお母さんの子ども」ということで、人は、生まれてから一方な依存状態にあり、その後、成人していく過程で「相互依存関係」になり、人生の終末期において(または重い病気などで)依存的になり死んでいくーーと述べている。この生まれたときに、「一方的な依存」にある状態では、それをささえるケア提供者や「依存労働者」(依存者の生活の基本的ニーズを満たすようケアする人)が存在する。私たちは、自由で理性的な責任ある自立した主体を形成できていくと考えているが(従来の自然権の発想)、実は、それは、常に「一方的な依存」から出発している「事実」を忘れている。そして、国家は「被依存者」そして「被依存状態」が尊厳ある存在であるような「義務」を負う。この「義務」を実行するひとつの有力な手段がBIなのだ。「誰もがお母さんの子ども」として愛される!ためにBIはある。これを決して理想主義的に語っているわけではない。このことが、部分的で、限界はあったにせよ実践されたために人類は曲りなりに生存してきたのだ。

(この稿続く。一部のフェミニストからは、キティの論理は、性役割固定化という批判がありうるが、そのことについてキティは、詳細に反論している)

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プロフィール

Author:白崎一裕
1960年生まれ。とちぎ教科書裁判(現在のところ結審しているので元)<本人訴訟>原告。今後の裁判を準備中、反貧困ネットワーク栃木共同代表、ベーシックインカム・実現を探る会代表。

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