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<title>とちぎ教科書裁判通信</title>
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<description>大田原市の扶桑社版歴史・公民教科書採択取り消し裁判の私的記録集</description>
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<title>しみん文庫書評「月刊ボランティア情報ＶＯＬ１６６　２００９年１２月号」掲載『介護労働を生きる』</title>
<description> 『介護労働を生きるーー公務員ヘルパーから派遣ヘルパーの２２年』白崎朝子著現代書館　定価１６００円＋税評者　白崎一裕すぐれたルポルタージュとは何だろうか？それは、批評精神に富んでいることだと評者は考えている。それならば、批評とは何だろうか？それは、「総合性」と「現実性」をあわせもつ表現のこと、と定義したい。今回、ご紹介する本書は、まさに、その定義された批評精神の結晶体である。　介護サービス提供事業者
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<![CDATA[ <span style="color:#990000"><strong>『介護労働を生きるーー公務員ヘルパーから派遣ヘルパ<br />ーの２２年』白崎朝子著<br />現代書館　定価１６００円＋税<br /><br />評者　白崎一裕<br /><br />すぐれたルポルタージュとは何だろうか？それは、批評精神に富んでいることだと評者は考えている。それならば、批評とは何だろうか？それは、「総合性」と「現実性」をあわせもつ表現のこと、と定義したい。今回、ご紹介する本書は、まさに、その定義された批評精神の結晶体である。<br />　<br />介護サービス提供事業者のコムスンの不正請求問題からおきた介護現場の混乱は「コムスンショック」といわれた。それに伴い、介護サービス業者批判や介護保険制度批判、介護労働現場の問題点などがマスコミで連日報道されていたことをご記憶の方も多いだろう。しかし、その介護現場の当事者の生の声を直接聞くことはあっただろうか。著者は、その介護労働に２０年以上たずさわる経験をもとに、介護労働からの生の声の礫（つぶて）を読者になげかける。評者も支援機器（福祉用具）の販<br />売の仕事にかかわっている関係で、介護労働の現場を傍らで見つめ続けてきた。そして、その労働の重要性と困難性を目にするとき、心から応援したい気持ちをいだいてもいた。しかし、本書を読んで、その傍観者的な気分が吹き飛ぶこととなったのである。<br /><br />介護労働の一番の特徴は、それが感情労働とよばれるものであるということだ。感情労働とは、「他者」に身体や知識・技術のみだけではなく感情の移入や同化などを必要とする労働のことだ。これらの労働は、そのため、充実感も大きいが「我」と「他者」の関係のありかたや、その「関係」をとりまく状況によっては大きな苦痛を伴うものともなる。<br /><br />このことを認識しない介護保険の制度改革は何の意味もないだろう。介護労働という感情労働をフォローする制度でなければならないのだ。このことを起点に、介護労働現場の問題点があぶりだされる。圧倒的な低賃金、神経をすり減らす長時間労働（介護労働者の疲労高蓄積群割合は、通常の女性労働の三倍）、女性が主力の職場だからこそおきる介護労働への差別的扱いとジェンダー問題の二重構造、介護利用者から介護労働者へ、またはその逆のセクハラ（性的搾取）、そして、利用者への構造的暴力である虐待、介護労働者のバーンアウトと二次受傷（セカンドリィ・トラウマ）、労働運動ができない介護労働者のメンタリティ等々である。これらの介護労働現場の問題解決には、まず、介護労働者の人権擁護が大前提であり「選択肢をたくさんもったゆとりがある状態の人間が、介護という仕事を選ぶべき」（本書ｐ１８５）ということが必要だ。ホームレス支援にも取り組む著者は、間違っても「派遣切りの労働者には、介護労働があるだろう」などという無責任な発想はすべきではなく、その考えを再考すべきだ！と述べている。評者もまったく同感だ。<br /><br />著者は、介護には「愛」が、介護労働現場には「希望」が必要だと締めくくっている。著者が参考文献とする『我と汝』において、孤高の宗教哲学者マルティン・ブーバーは、「愛は＜なんじ＞にたいする＜われ＞の責任である」と言う。すべてのひとびとの介護現場への責任として、本書を読むことをお勧めする。</strong></span> ]]>
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<dc:subject>書評</dc:subject>
<dc:date>2009-11-10T16:05:33+09:00</dc:date>
<dc:creator>白崎一裕</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>反貧困ネットワーク栃木関連情報</title>
<description> ○以下の「ＷＥ」のブログでご覧ください。http://femixwe.blog10.fc2.com/blog-entry-136.html
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<![CDATA[ <span style="color:#660066"><strong>○以下の「ＷＥ」のブログでご覧ください。</strong></span><br /><br />http://femixwe.blog10.fc2.com/blog-entry-136.html ]]>
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<dc:subject>お知らせ</dc:subject>
<dc:date>2009-10-28T16:54:47+09:00</dc:date>
<dc:creator>白崎一裕</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>教育批判の論理ーーあるＭＬでの発言から</title>
<description> Ａさんのお考えを聞いて、『魂の殺人』を書いた、A・ミラーのことを思い出しました。ミラーの主張は教育とはそもそも、大人の抑圧であり復讐であり暴力である」というものです。この本は、その事例の分析にあふれており、説得力があります。また、それをもっと精緻に理論化して、「権力論」そのものの刷新をしたのが、私の好きな、M・フーコーです。彼は、同性愛者でしたが、そのフランス社会での抑圧感をもとに、彼のすべての仕事
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<![CDATA[ <span style="color:#000099"><strong>Ａさんのお考えを聞いて、『魂の殺人』を書いた、A・ミラーのことを思い出しました。ミラーの主張は教育とはそもそも、大人の抑圧であり復讐であり暴力である」というものです。この本は、その事例の分析にあふれており、説得力があります。また、それをもっと<br />精緻に理論化して、「権力論」そのものの刷新をしたのが、私の好きな、M・フーコーです。彼は、同性愛者でしたが、そのフランス社会での抑圧感をもとに、彼のすべての仕事が構築されたのだと思います。<br /><br />彼の本で、もっともそれが、明確に書かれたのは、『監獄の誕生』（監視と処罰）ですが、そこでは、学校・教育は、身体と精神を「規律・訓練化」する権力装置で、それに、すべての「知」が共犯関係にあるものだーーというものでした。のちに、その権力論を『性の歴史』のなかで、「権力は、経済的プロセスや知識の関係、性的関係の外にあるのではなく、その関係の中に内在し、それらの権力は、上からくるのではなく、下からきて、支配されるもの・支配するものという二項対立ではないーー」と表現しています。<br /><br />すべての権力は、人間のさまざまな関係性に内在する関係としての権力ということです。そして、教育もそのひとつの装置だというのです。これらの思想は、「反教育」とか「教育批判」とかよばれる一群の思想をうみだしました。日本では、佐々木賢さんが「教育無化」ということで同じようなことを言ってきました。私の経験では、これらの考えは、うちの「ごくせん、３年Eクラスタイプ」の塾生との関係を作っていく上ではとても有効だったと思います<br />。彼らは、「教育そのものにうんざりしていて」、それが「良い」（進歩的・自由主義的・オルタナティブ的）教育だろうが「悪い」教育だろうが、すべて、抑圧に感じていたのです。<br />ですから、わたしは、わたしから、すべての「教育的かまえ」をはずして、その辺の近所のあんちゃん（当時は）になりました。塾の授業はしません。（もちろん、教えてくれ！というときにはやります）ただ、だべって終わりです。でも、そのことにより、彼ら彼女らとの人間関係は、とてもよくなりました。その時に私は、観念的だった、フーコーの「規律訓練」の意味がよくわかったのです。<br /><br />あとから、考えたことですが、実は、フーコーの批判の対象は、フランスをはじめ、北欧の「福祉国家」そのものだということもわかりました。「福祉」は「人権」の名のもとに、「人間」を福祉受給者とそうでないものを分割し、人間を分類し類型化してある種の権力のもとに操作するものだーーということです。<br /><br />しかし、フーコーは、晩年、有名なインタビューでこう答えました。「フーコーさん、権力はなくなるんで<br />すか？」そうしたら、彼は「とんでもない、権力は、なくなりません。たとえば、私があなたに何かを教えるとしますね、そこには、なんらかの権力関係が発生します。ですから、権力はゼロにはなりえません。権力のあつかいかたをデリケートにするということが大事なんですよ」というような答えをしています。<br /><br />この謎めいた答えは何を意味しているか？それは、いまのこのMLの議論の文脈でいえば、「公」は<br />公論で決まるのだから、いつも、動揺し変革されていくーー個人と社会の緊張関係にあり、固定化したものではない、人権に配慮していると考えても、それに抵抗したり抑圧を感じる人がいれば、そのひとたちのことを聞いて、「公」のありかたを再議論し、その結果の「法」を発展させ、より、デリケートな存在にすることなんだーーーということなのです。<br /><br />これは、高度福祉国家への批判にもなっています。ただ、オランダやデンマークなどはその応答をなんとかしながら進歩する国家のありかたを模索しているといえるかもしれません。そして、それが共和主義であり民主主義なのです。</strong></span> ]]>
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<dc:subject>コラム</dc:subject>
<dc:date>2009-10-21T21:22:13+09:00</dc:date>
<dc:creator>白崎一裕</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>月刊ボランティア情報書評２００９年９月号　『デモクラシー以後――協調的「保護主義」の提唱』　Ｅ・トッド著 </title>
<description> 『デモクラシー以後――協調的「保護主義」の提唱』Ｅ・トッド著　石崎晴己訳　藤原書店　定価３２００円＋税　評者　白崎一裕このトッドの新訳は、９・１１以降におけるアメリカのイラク戦争などの行動をアメリカの衰退を繕うための「演劇的小規模軍事行動」と分析してイラク戦争反対の思想根拠となった『帝国以後――アメリカ・システムの崩壊』に続くものだ。そして、本書は、ふたたびアメリカを中心としておきた「金融恐慌」への対
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<![CDATA[ <span style="color:#330033"><strong>『デモクラシー以後――協調的「保護主義」の提唱』Ｅ<br />・トッド著　石崎晴己訳　藤原書店　定価３２００円＋<br />税　<br />評者　白崎一裕<br /><br />このトッドの新訳は、９・１１以降におけるアメリカのイラク戦争などの行動をアメリカの衰退を繕うための「演劇的小規模軍事行動」と分析してイラク戦争反対の思想根拠となった『帝国以後――アメリカ・システムの崩壊』に続くものだ。そして、本書は、ふたたびアメリカを中心としておきた「金融恐慌」への対処法が明確に主張されている。<br /><br />　内容は、サルコジ政権の分析やフランス国内の政治状況など、もっぱらフランスのことに限られている。しかし、それらを背景にして考えてみると、わが日本の状況が見事に浮き彫りにされてくる。まず、フランスではカトリック教に対抗して形作られてきた、諸政治勢力が、カトリックの衰退とともに同時に衰退し、自らの存在の根拠をうしなったこと。それにかわり、政治空間をおおっているのは、人間や社会への関心を失い、自らに閉じこもる「ナルシシズム」の蔓延であり、それが高学歴者のエリート層にも顕著に広がっていること。そして、それら高学歴先行世代階層と若者層の世代間対立のこと。<br />加えて、地方選挙と国政選挙の断層があること。また、それらの「ナルシシズム」の人々は、貧しい人を軽視し、自由貿易主義的経済政策に閉じこもり、民主主義の危機を招いていること、等々である。　<br /><br />これらの分析をわが日本にも当てはめてみよう。バブル崩壊からの失われた１０年にかけての人々の空虚な意識。それを埋め合わせた「小泉・竹中ライン新自由主義政策」と民主主義の「劇場化」。その結果拡大した、世代間格差・地方と中央の格差および圧倒的な「貧困」の拡大である。加えて、昨年のリーマン・ブラザーズ破たん以降の「恐慌」が加わった。それらに対して、学者や評論家の多くが「保護主義はいけない、自由貿易を守ろう」と声高に主張している。しかし、トッドは、明確にそれに対して自由貿易主義ＮＯ！と言い、保護主義こそ国内自給を促して国内需要を高め格差と貧困からの脱却への道だ、と提言している。そもそも、金融恐慌を招いたのは、グローバル化という自由貿易主義の延長にあるマネーの暴走だった。その暴走に歯止めをかけるのは、自給を中心とする保護主義であり、同時に、それは、民主主義空洞化の克服ともなるというのだ。<br /><br />その論理を補強するのに、日本の読者向けに付録としてつけられているのが、ケインズの「国家的自給」という論文だ。このなかで、ケインズは財や金融の国家的自給を主張している。評者は、これに加えて「基礎所得保証（ベーシックインカム）と農が基軸の地域計画で自給型経済へ」（「現代農業２００９年８月増刊」）と「時代はグローバルからローカルへ」（「現代農業２００９年２月増刊」共に農文協）の関曠野氏（思想史）のふたつの論文を合わせ読むことをお勧めする。これらを読まれることでトッドとケインズの主張の意味がより明確に理解されるだろう。</strong></span> ]]>
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<dc:subject>書評</dc:subject>
<dc:date>2009-09-10T22:05:11+09:00</dc:date>
<dc:creator>白崎一裕</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>近代教育史に関するメモ書き</title>
<description> さて、日本の近代史ですが、まず、日本の近代教育史は、明治維新論をぬきにかたれません。結論から言うと、日本の近代教育は、国民国家のための「国民（臣民）」創出のための道具でした。また、その構造は、大田堯さんがいわれる「二階建て構造」で、国家エリート養成（官学・東京帝国大学中心）と治安対策と徴兵制をともなった圧倒的な庶民を「臣民」にコントロールする教育の二段階制でした。明治維新は、薩長のクーデターで、実
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<![CDATA[ <span style="color:#000033"><strong>さて、日本の近代史ですが、まず、日本の近代教育史は、明治維新論をぬきにかたれません。結論から言うと、日本の近代教育は、国民国家のための「国民（臣民）」創出のための道具でした。また、その構造は、大田堯さんがいわれる「二階建て構造」で、国家エリート養成（官学・東京帝国大学中心）と治安対策と徴兵制をともなった圧倒的な庶民を「臣民」にコントロールする教育の二段階制でした。<br /><br />明治維新は、薩長のクーデターで、実は、江戸幕府のほうが開明的なことも多々ありました。そのクーデターの中心人物ともいえる、木戸たかよしは、明治１２年の建白書で「人民の富強がなければだめで、人民が無識無弱では、世界富強になれない。そのためには「国体・時勢をわきまえ忠孝の道を知らせるために＜小学校＞を設置すべきだ」という意見を述べています。ここに明治政府の本音があります。とにかく、たいして理念のないクーデターですから、外見だけは「国民国家」の外見をつくる必要があったのです。<br />そのための初等教育でした。ここにあるのは、社会へ出て役立つスキルとはいっても、臣民としての忠実な主体として、そして、やがて到来する産業化の道具としてのスキルでした。江戸期の寺子屋での知識は、町衆や村落の共同体のためのスキルであり、具体的なものでした。ですから、明治１０年代になっても就学率はあがらず、民衆の学校打ちこわし運動が、各地でおこったのです。<br />学制に関する告諭（明治５年、１８７２年）にある有名な「学問は身を立つるの財本」という言葉も、明治政府は、実学スキルを強調しましたが、その欺瞞は、庶民にみやぶられていたといってもいいでしょう。しかし、その後、「学問」が階層移動と徴兵逃れの有力な道具となることを知った庶民が徐々に「能力主義的」な教育にからめとられていったのも事実です。この最大のイデオローグは、福沢諭吉です。まさに「学問のすすめ」！彼の言説が、そのまま、日本の実学の二重構造をあらわしています。すなわち、本来は、近代以前の共同体知であった教育が明治以降、臣民主体と能力主義的再編主体としてたちあらわれる二重構造です。ここで、注意しなければならないのは、社会スキルの要請は、江戸期も明治期もあったが、その意味と質が違うということです。（この稿、続く）</strong></span> ]]>
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<dc:subject>コラム</dc:subject>
<dc:date>2009-09-03T16:12:32+09:00</dc:date>
<dc:creator>白崎一裕</dc:creator>
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