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とちぎ教科書裁判通信

大田原市の扶桑社版歴史・公民教科書採択取り消し裁判の私的記録集

2014-01

「ボランティア情報2014年1月号」 市民文庫書評 『エネルギーと公正』イヴァン・イリッチ著

『エネルギーと公正』イヴァン・イリッチ著 大久保直幹訳 晶文社 定価1200円(絶版・ネット古書入手可能)

評者 白崎一裕

「社会主義は自転車で到来する」。冒頭に掲げられたこのエピグラフにこそ、本書の本質はよく言い当てられている。しかし、間違ってはいけない、社会主義が問題ではないのだ。実際、著者のイリッチは資本主義と同時に社会主義も工業化した産業社会の一つとして容赦なく批判している。私たちの未来は、自転車の速度で到来する社会となるだろう、ということが重要なのだ。エネルギーをどのように使うか?そして、どのようにエネルギーを社会の中で位置づけていくか?ということを自転車の速度に置き換えて考えてみようという提言に他ならない。
 
 私たちの社会が高度消費社会と言われるようになって久しい。しかし、その消費社会は、もちろん歴史的存在であり永遠の昔から存在していたわけでない。高度消費社会を根底のところで支える資本主義は、すでに19世紀後半から20世紀前半にかけて行き詰まりをみせていた。それを救ったのが燃える水、石油だ。ドレーク大佐が1859年8月にペンシルベニア州タイタスビル近くのオイル・クリークで採掘を始めた油田は、その後、内燃機関と結びつき、自動車の大量生産と共にモータリゼーション社会の到来をもたらす。石油こそエネルギー効率においてもっともすぐれたものであり、無から有を生む存在といっても過言ではない。

このタナボタ的エネルギー源が資本主義をオイル資本主義に変容させて延命させたのだ。オイル資本主義は、「大量に・速く」ということを至上命題として現在の消費社会を生み出した。原発ですら、発電タービンを回す動力部分において核エネルギーを使用するだけで、そのインフラはすべて石油を基にして動いており、石油なしには核燃料の運搬さえできない構造となっている。
 
 イリッチは、この大量のエネルギーを使ってきた石油文明を移動の速度という概念を用いて批判する。エネルギー消費が一定の境界を超えると、交通は「運輸産業」となり、高速道路が発達して人々の居住のあり方を変え、隣り合って暮らしていた人々の間にくさびを打ち込むようになる。人々の暮らしは、移動の速度の増大に依存するようになり産業的管理社会が奴隷化した人間存在を生み出す。いかなる社会もその政治体制や文化が必然的に退廃していくというのだ。加えてイリッチは、退廃に対抗するためにクリーンな自然エネルギーを用いてもエネルギー消費量を減らさない限り結果は同じことになると述べている。

エネルギー中毒ともいえる大量消費は、社会の中に存在する人間を制度に従属する受身なものとしてしまい、参加の民主主義という政治形態が失われると警告を発している。人々の公論により生き生きとした地域社会を創造する政治文化を取り戻すためには、エネルギーの大量消費を超えていかなければならない。このことは、現在の機能不全化した大衆民主主義を作り直すヒントにもなる。イリッチの提言を評者なりに言い換えると地域分散型小規模エネルギー共同体こそが、自転車の速度による参加民主主義への近道ということになるだろうか。脱学校化論や脱病院社会を提案して1970年代~80年代に思想界で存在感を示していたイリッチの評論を現在の状況に置き換えて再読する意味は大きい。尚、翻訳には、「創造的失業の権利」という刺激的な論文も合わせて掲載されている。

~~~~~~~~~~~~~~ 以上 ~~~~~~~~~~~~

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プロフィール

白崎一裕

Author:白崎一裕
1960年生まれ。とちぎ教科書裁判(現在のところ結審しているので元)<本人訴訟>原告。今後の裁判を準備中、反貧困ネットワーク栃木共同代表、ベーシックインカム・実現を探る会代表。

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