とちぎ教科書裁判通信

大田原市の扶桑社版歴史・公民教科書採択取り消し裁判の私的記録集

2017-09

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大アジア主義を超えてーーー宮崎滔天について

大アジア主義を超えてーーー宮崎滔天

 中国革命の先駆者とされる孫文を支援した日本人として宮崎滔天の名前は歴史に刻まれている。その孫文と滔天の最初の出会いとはどんなものだったのか。
滔天は、出会いの冒頭を著書『三十三年の夢』にこう書き記している。「いささか失望の心を生じせしむーーーー」
滔天は、孫文が、小男であまりに紳士然としているのに貫禄不足を感じがっかりするのだ。しかし、次の滔天の「君の中国革命の主旨は何だろうか?」という単刀直入な質問に対する孫文の明晰な返答は、その第一印象が間違いであることがわかる。
 
 孫文は、おおよそ以下のように答えた。
○  人民自らが己を治める「共和主義」こそが中国革命の精神である。
○  中国人民に、上記の「自治」の精神がないと言う意見もあるが、これは誤りで、清の悪政がそれをさまたげているにすぎず、本来は、古来、中国人民は自治の能力は高いものなのだ
○ この中国革命は、中国一国のものではない。文明の名をかりた西欧列強の侮辱に対して、世界の不平等を正し、世界の人道を確立するための事業である。

 この答えに滔天は非常な感銘を受け、孫文を「東洋の珍宝」と評価するにいたった。この後、滔天は孫文に全幅の信頼と友情を捧げることとなる。

 滔天が孫文に最大の共感を示した彼の思想は、いったい、どのように育まれたのか?その系譜を考えるためには、滔天の兄たちの軌跡を追わなければならない。
 
 滔天一家は、父長蔵、母佐喜の両親のもと、八郎・民蔵・彌蔵・寅蔵(滔天)の四人の兄弟達からなっていた。宮崎家は、肥後藩(熊本県)荒尾村(現在の荒尾市)の下級武士(郷士)である。父母は、武士の気風を身につけ「世のため、人のため」が口癖のような育て方をしていた。その長兄、八郎は、若くして熊本民権党の中心人物となり、中江兆民らとの交流もある逸材として知られていた。八郎は、キリスト教などの影響を受け、ルソーの「民約論」を経典とする植木学校などもつくっている。彼はそれらの思想から学び民権運動をすすめるが、その過程で西南戦争の西郷軍に参加して27歳の若さで戦死してしまう。この八郎の死は、宮崎家にひとつの教訓を残す。それは「官の飯は食うな。官のつく人間は泥棒か悪人の類であり、官に対する賊軍・謀反こそ英雄の道」というものだ。この教えは八郎亡き後の、民蔵以下すべての兄弟にうけつがれていった。
 
さて、次に滔天が一兄と呼んだ民蔵はどういう人物だったのか。彼は兆民の仏学塾にも学び、また、民権運動家として聖書にも詳しかった。しかし、彼は、キリスト教徒にはならず、独自の思想をもちその後の人生の指針とする。民蔵の思想とは、「万人の土地の平等な所有」ということであり、経済の平等主義であった。彼は、その思想の根本に「真理は天立の法律にして、森羅万象は真正の聖書なり」という立場をおいていた。民蔵は、この考えを終生変えることなく、1916年の北京政府の憲法草案に、「民人には土地を平等に所有する権利」があることを加えるよう請願書を出しているほどである。
 さて、次は、二兄の彌蔵である。彌蔵は、直接、滔天に「アジア主義」をふきこんだ人物である。その論理は、次のようなものだった。

○ 自由民権運動を私も志してきたが、たとえ、日本一国でそれが成功して人民主権の国家ができたとしても、日本一国では、西欧列強の歯止めにはならないだろう。
○  西欧列強は次々とアジアに進出してきており、アジアの人権が踏みにじられている。これに対抗して世界の人道を回復するには、アジアの中心である中国で革命を起こして共和制の国家を打ち立てる必要がある。
○ 上記を託す人物を中国に探すために、私は中国人に姿を変えよう。

 彌蔵は上記の考えの同士になるよう滔天を説得したが、そのときの滔天は、キリスト教をたてにそれに反論した。 ただ、後に滔天は、キリスト教から離れて、この彌蔵の考えを自分のものとしていく(反対に彌蔵はキリスト教徒になる)。そして、彌蔵と共にこの「大アジア主義」実現にむけての行動にすすんでいくことになる。(この彌蔵が滔天に説いた「大アジア主義」は後年、1924年に神戸女学院で孫文が「大アジア主義」と題した講演と似た内容となっている。孫文は次のように述べている。
「――西欧の文化は、鉄砲や大砲で他人を圧迫し、功利利権を図る覇道の文化である。これに対して東洋の文化は、仁義道徳を主張する王道の文化である。われわれは東洋の王道文化をもって、西欧の覇道文化に対抗すべきだーー」)
 
滔天が、冒頭の出会いで、孫文に惚れ込んだのも、この三人の兄たちの考えが滔天の中に凝縮されていたからだろう。ここで、宮崎兄弟にながれ滔天に受け継がれたものとは何かを整理しておこう。

① 薩長藩閥政治の官僚主義や出世主義に対する批判・明治維新の再変革――このことが滔天が徳富蘇峰の大江義塾に入塾しながら、蘇峰の出生主義を嫌い、離れる要因となっている。
② キリスト教の影響。万人の平等を意識する。――これは、滔天が後に北一輝と出会うが、中国革命をあくまでも自己の理念のために利用しようとする北との路線の違いとなっている。北の「国体論及び純正社会主義」が「進化論」の影響のもとに、国家の生存競争を論じているが、この点が、滔天のキリスト教の影響による平等と博愛精神とは相容れないものとなっているのだろう。
③ 熊本・荒尾の農民からアジア全体、世界全体までを展望し、国家をも超えた反権力思想・無政府思想に近しいものをもつーーこれが頭山満らの「国家主義者」と相容れない点となる。

 ただ、その後の滔天の歩みは平坦なものではなかった。孫文の中国革命は何度も失敗と挫折を繰り返す。なかでも孫文一派が恵州で蜂起し、それに台湾で滔天らが呼応して兵を上げる予定であったが、武器の輸送がなされず失敗したことの挫折感は大きく、滔天は浪曲師への道へ弟子入りしてしまう。
 しかし、滔天の中国革命への情熱は冷めることなく、孫文をはじめとする亡命者・中国留学生に滔天の家族も含めて惜しみない援助を与え、ようやく1905年に孫文・黄興との会会合を実現し中国革命同盟会の創立がなる。
 そしてこのことを契機に辛亥革命が成功することとなる。

だが、これはあらたなる中国の試練のはじまりでもあった。

滔天は、『三十三年の夢』の自序で「余おもえらく、理想は実行すべきものなり、実行すべからざるものは夢想なりと、余は人類同胞の義を信ぜり、故に弱肉強食の現状を忌めり、」と述べている。まさに滔天の人生は、理想の実行の連続であったといえるのではないだろうか。

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プロフィール

白崎一裕

Author:白崎一裕
1960年生まれ。とちぎ教科書裁判(現在のところ結審しているので元)<本人訴訟>原告。今後の裁判を準備中、反貧困ネットワーク栃木共同代表、ベーシックインカム・実現を探る会代表。

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