とちぎ教科書裁判通信

大田原市の扶桑社版歴史・公民教科書採択取り消し裁判の私的記録集

2017-09

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真の「龍馬伝説」とは?――――すべては公議に発する龍馬の「国家」ビジョン

真の「龍馬伝説」とは?――――すべては公議に発する龍馬の「国家」ビジョン

高知県の空の玄関は、「高知龍馬空港」と命名されている。これは、2003年(平成15年)に「高知空港」を地元高知・土佐の歴史的英雄、坂本龍馬の名をとって名称を変更したものだ。日本史の人気投票で、戦国時代の織田信長とならんで最も人気の高い人物が坂本龍馬ということだから、それにあやかり地域おこしの意味もこめて命名されたのだろう。「高知龍馬空港」のおみやげ物店へ行くと、アイドルタレントのブロマイドと同じように、あの少し眼を細めて、ブーツを履いた龍馬の写真つきの絵葉書や写真たてが数多く売られている。


しかし、龍馬の行動は、その地元、高知・土佐を大きく超えていくものだった。龍馬の一生は、いつも何か先例を超えていくものとなる。その第一歩は、土佐藩の「脱藩」である。龍馬は、1862年(文久二年)に長州尊皇攘夷派の若き指導者、久坂玄端(くさかげんずい)との萩での一週間におよぶ会合の末、尊皇攘夷の実現のためには「藩」という枠組みを超えて行動をおこすことが必要だと説く久坂の考えに強く共感する。当時の龍馬は、土佐藩での尊皇攘夷をめざす土佐勤皇党のメンバーであり、そのリーダーは龍馬の幼なじみでもある武市瑞山(たけちずいざん)だった。しかし、龍馬は、瑞山とは違い、その「土佐藩」という枠組みから決別したのだ。

その後に、龍馬は、日本の軍艦を持たねばならないという素朴な持論をもって幕府上層部の松平春嶽のもとに飛びこむ。春嶽は、この若者に何か共感するところがあったのだろう。軍艦奉行並みの勝海舟への紹介状を書いてくれることになった。龍馬は、この海舟から世界の実情・その国力や軍事力のこと・それに対抗するための日本独自の海軍の必要性・その海軍の構想(軍艦の合計は370艘で、総乗組員は6万1205人におよぶことなど)などの明確なビジョンを聞かされる。

この海舟の話は、龍馬にとって大きな転機となった。

龍馬は、そのまま、勝の弟子となる。当時の龍馬は、姉の乙女にあてた手紙で「今にては「日本」第一の人物、勝麟太郎(海舟)という人の弟子になりーーー」と書いている。龍馬は、この手紙にあるように、海舟の思想に触発されて「日本」という国家を強く意識するようになるのだ。その思考の軌跡は「藩から日本へ」と描くことができる。海舟は、日本の海軍を足がかりに日本と朝鮮と中国の東アジア連合国家の構想を持っていた。これは、後の薩長のアジアでの強国をめざす大国主義ではないものだ。龍馬はこの「日本」の系譜を引き継いだ。

海舟は、上記のような構想をもちながら、徳川幕府の枠組みからは、とうとう抜け出ることがなかった。が、しかし、龍馬はその師の思想をも超えていく。

それは、薩長同盟・大政奉還・船中八策へと続く軌跡だ。

この一連の軌跡は、「船中八策」に結実している。「船中八策」とは、長崎から京都に向かう夕顔丸船上で、龍馬が土佐藩幹部の後藤象二郎に語ったものを海援隊士の長岡謙吉が書きとめたものといわれている。龍馬は、彼の結社・海援隊のいろは丸が紀州の明光丸と衝突して沈没する事件(1867年)の解決後に、京都に上洛していた土佐藩主の山内豊信に大政奉還論を進言するために京都へ向かっていた。

ただし、その龍馬の自筆本や写本などは存在していない。また、龍馬自筆の「新政府綱領八策」というものもあり、その作成過程にはわからない事が多い。ただ、「八策」には明らかに龍馬の思考と行動の軌跡が反映されていると思う。「船中八策」とは、次のようなものだ。

一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ政令よろしく朝廷より出づるべき事

一、上下議政局を設け議員を置きて万機を参賛せしめ万機よろしく公議に決すべき事

一、有材の公卿・諸侯・および天下の人材を顧問に備え官爵を賜いよろしく従来有名無実の官を除くべき事

一、外国の交際・広く公議を採り新たに至等の規約を立つべき事

一、古来の律令を折衷し新たに無窮の大典を選定すべき事

一、海軍よろしく拡張すべき事

一、御親兵を置き、帝都を守護せしむべき事

一、金銀物価、よろしく外国と平均の法を設くべき事


 ここでのポイントは、「大政奉還」「公議」「外国との交際」の三点だ。

徳川将軍が政権を朝廷に戻すこと、そして、政治の基本は「公議」すなわち、みんなの議論によって政治の方針を決めていくことが基本となっている。「外国との交際」ということでは、龍馬の頭の中には「万国公法(国際法)」のことが浮かんでいただろう。龍馬には、その「万国公法」に関する経験もあった。さきに述べた、いろは丸事件とのトラブルで龍馬は、船舶が衝突した「責任はどちらにあるのか?」ということを「万国公法」(国際法)によって解決し、紀州藩から83526両の賠償金を受け取っている。


龍馬には、海舟から受けつぎ発展させた「日本」という国家の明瞭なビジョンができあがっていたのだ。それは、龍馬が実際に見たペリーの「黒船」の衝撃を彼なりに受け止め、打ち返すものであり、公の議論をして外国と万国公法による対等なつきあいをしていくという国際社会への参加宣言のようなものでもあった。

 ここにきて、龍馬の思想と行動は、「薩長倒幕派」とは異なるものとなっていく。薩長は、天皇を「玉」として利用し勝手に盟主ときめ、「公議」ではなく武力によるクーデターを実行していくのだ。

 勝海舟は、後にこういっている。「王政復古は薩長の「私」、大政奉還こそが「公」だ」

そして「(大政奉還)は、坂本がいたからの事だ」(『海舟座談』)こうして、公につながる志をいだいた龍馬だが、残念ながら、33歳で暗殺されてしまう。もし、龍馬が生きていたらーーーー、その後の、胡散臭い薩長藩閥政治を変えていったかもしれない。

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プロフィール

白崎一裕

Author:白崎一裕
1960年生まれ。とちぎ教科書裁判(現在のところ結審しているので元)<本人訴訟>原告。今後の裁判を準備中、反貧困ネットワーク栃木共同代表、ベーシックインカム・実現を探る会代表。

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