とちぎ教科書裁判通信

大田原市の扶桑社版歴史・公民教科書採択取り消し裁判の私的記録集

2017-07

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シモーヌ・ヴェイユによる東京高裁批判②

①であげた、ロンドン時代の重要論文につらなるものから、みていかないと、ここで問題提起されているヴェイユの問題意識が読み解けないということに気がついた。そこで、まずは、次の文章をながくなるが引用してみる。これは、「人格と聖なるもの」(『ロンドン論集とさいごの手紙』田辺保・杉山毅訳)からのものである(邦訳39ページ)

正義とは人間に害がされないように注意することである。ひとりの人間が、心の中で「なぜわたしはわざわいをうけるのか」と叫ぶ時、わざわいはなされているのである。自分がどんなわざわいを受けているのか、だれが自分にわざわいを与えるのか、なぜ自分がわざわいを受けるのかを理解しようとするやいなや人間は間違うことがしばしばあるものである。しかし、あの叫び声は絶対に間違いを犯さない。「なぜ、あの人はわたしよりも多くもっているのか」という、よく聞かれるもうひとつの叫び声は、権利と関わりを持つ。この二つの叫び声を区別することを学び、できるだけ、法規、普通裁判所、警察を使って、できるだけ穏便に後者の叫び声を押えなければならない。この後者の叫び声が属する領域内の諸問題を解決しうる精神を形成するためには、法律学校で十分である。しかし、「なぜわたしはわざわいを受けるのか」という叫びは、まったく別の諸問題を提起する。これらの諸問題を解くには、真理、正義、愛の精神が不可欠である。」

引用がながくなったが、アンダーラインを中心に読んでいただきたい。
「なぜ、あの人は多くもっているのか」≒通常の民事訴訟≒実定法。
「なぜ、わざわいを受けるのか」≒憲法訴願≒基本権にかかわる≒自然法的
というように私はあえて解釈をする。そして、後者には「真理・正義・愛」が不可欠であるとも書かれている。
この「正義」とは、「人間に害がされないように注意すること」というヴェイユらしい美しい定義が
されている。このことを裁判官は、自覚しているのだろうか?(続く)

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プロフィール

白崎一裕

Author:白崎一裕
1960年生まれ。とちぎ教科書裁判(現在のところ結審しているので元)<本人訴訟>原告。今後の裁判を準備中、反貧困ネットワーク栃木共同代表、ベーシックインカム・実現を探る会代表。

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