とちぎ教科書裁判通信

大田原市の扶桑社版歴史・公民教科書採択取り消し裁判の私的記録集

2017-07

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教育批判の論理ーーあるMLでの発言から

Aさんのお考えを聞いて、『魂の殺人』を書いた、A・ミラーのことを思い出しました。ミラーの主張は教育とはそもそも、大人の抑圧であり復讐であり暴力である」というものです。この本は、その事例の分析にあふれており、説得力があります。また、それをもっと
精緻に理論化して、「権力論」そのものの刷新をしたのが、私の好きな、M・フーコーです。彼は、同性愛者でしたが、そのフランス社会での抑圧感をもとに、彼のすべての仕事が構築されたのだと思います。

彼の本で、もっともそれが、明確に書かれたのは、『監獄の誕生』(監視と処罰)ですが、そこでは、学校・教育は、身体と精神を「規律・訓練化」する権力装置で、それに、すべての「知」が共犯関係にあるものだーーというものでした。のちに、その権力論を『性の歴史』のなかで、「権力は、経済的プロセスや知識の関係、性的関係の外にあるのではなく、その関係の中に内在し、それらの権力は、上からくるのではなく、下からきて、支配されるもの・支配するものという二項対立ではないーー」と表現しています。

すべての権力は、人間のさまざまな関係性に内在する関係としての権力ということです。そして、教育もそのひとつの装置だというのです。これらの思想は、「反教育」とか「教育批判」とかよばれる一群の思想をうみだしました。日本では、佐々木賢さんが「教育無化」ということで同じようなことを言ってきました。私の経験では、これらの考えは、うちの「ごくせん、3年Eクラスタイプ」の塾生との関係を作っていく上ではとても有効だったと思います
。彼らは、「教育そのものにうんざりしていて」、それが「良い」(進歩的・自由主義的・オルタナティブ的)教育だろうが「悪い」教育だろうが、すべて、抑圧に感じていたのです。
ですから、わたしは、わたしから、すべての「教育的かまえ」をはずして、その辺の近所のあんちゃん(当時は)になりました。塾の授業はしません。(もちろん、教えてくれ!というときにはやります)ただ、だべって終わりです。でも、そのことにより、彼ら彼女らとの人間関係は、とてもよくなりました。その時に私は、観念的だった、フーコーの「規律訓練」の意味がよくわかったのです。

あとから、考えたことですが、実は、フーコーの批判の対象は、フランスをはじめ、北欧の「福祉国家」そのものだということもわかりました。「福祉」は「人権」の名のもとに、「人間」を福祉受給者とそうでないものを分割し、人間を分類し類型化してある種の権力のもとに操作するものだーーということです。

しかし、フーコーは、晩年、有名なインタビューでこう答えました。「フーコーさん、権力はなくなるんで
すか?」そうしたら、彼は「とんでもない、権力は、なくなりません。たとえば、私があなたに何かを教えるとしますね、そこには、なんらかの権力関係が発生します。ですから、権力はゼロにはなりえません。権力のあつかいかたをデリケートにするということが大事なんですよ」というような答えをしています。

この謎めいた答えは何を意味しているか?それは、いまのこのMLの議論の文脈でいえば、「公」は
公論で決まるのだから、いつも、動揺し変革されていくーー個人と社会の緊張関係にあり、固定化したものではない、人権に配慮していると考えても、それに抵抗したり抑圧を感じる人がいれば、そのひとたちのことを聞いて、「公」のありかたを再議論し、その結果の「法」を発展させ、より、デリケートな存在にすることなんだーーーということなのです。

これは、高度福祉国家への批判にもなっています。ただ、オランダやデンマークなどはその応答をなんとかしながら進歩する国家のありかたを模索しているといえるかもしれません。そして、それが共和主義であり民主主義なのです。

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プロフィール

白崎一裕

Author:白崎一裕
1960年生まれ。とちぎ教科書裁判(現在のところ結審しているので元)<本人訴訟>原告。今後の裁判を準備中、反貧困ネットワーク栃木共同代表、ベーシックインカム・実現を探る会代表。

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