とちぎ教科書裁判通信

大田原市の扶桑社版歴史・公民教科書採択取り消し裁判の私的記録集

2017-09

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とちぎ教科書裁判通信 2号からの転載

「つくる会」の思想を撃つ!-扶桑社、歴史・公民教科書思想批判その①-

黒羽から歴史と教育を考える会代表  白崎一裕
司馬遼太郎史観と「つくる会」の関係を問う


「つくる会」(新しい歴史教科書をつくる会)の中心人物である藤岡信勝氏が、その歴史教科書批判の際に、自分の提唱する「自由主義史観」の手本としたのが、作家、司馬遼太郎の「歴史観」だった。その司馬遼太郎は、絶大なる人気を誇る「国民作家」と称される。しかし、その「歴史観」が果たして賞賛されるようなものなのかは、慎重に考えてみなければならない。

国家・国民・人民

司馬は、憲法学の樋口陽一氏との対談(文藝春秋)で次のように述べている。
「明治憲法発布のときには、人民も新聞も大喜びで騒いでいる。――(中略)―― でも、人民の熱気というのは、国民になれるという喜びだったんだと思うんです。国民というのは、この場合には国家と同体だと思い込んでいる市民のことですね。(略)等し並に国民になれるという喜びですね。」
また、「ついでながら、近代ヨーロッパでは、“国民(ネーション)”と“人民(ピープル)”は区別された概念のようですが、日本ではふつう“国民”のなかにその両概念を含めます。」
(『「明治」という国家』日本放送出版協会)とも述べている。

ここでは、およそ、三つのことがすぐに疑問点として浮かび上がる。
① 明治憲法(大日本帝国憲法)制定時に、本当に国民は熱狂したか?
②「国民」と「国家」は同体か?
③「人民」と「国民」を同じ概念としてくくってよいか?

というようなことである。ここで、①の問題は、次回以降の歴史批判の項目で詳述しようと思う。今回は、②と③の問題をとりあげる。この問題は、実は、「教育基本法」や「憲法」の問題にも深くかかわることなのだ。
 「国家」「国民」「人民」この三つの概念は、混同して使われているようだ。そして、司馬は、そのことに居直り、それを「日本の言語的使用の常識」にしてしまっている。しかし、このことは、憲法を考える上で極めて重大な誤りがあるといわなければならない。

「国民国家」ではなく「人民国家」とすることの意味

西欧の歴史をみると、イギリス市民革命により議会主導の近代立憲主義国家が生まれた。これが「Nation-State」とよばれている。これは「国民国家」と訳すのではなく「民族国家」と訳すべきである。Nation(ネイション)すなわち、「人民」は、自らの法や国家をつくり、そして、「社会契約」を結ぶことによって市民としての権利・義務・責任をもち「国民」となる存在である。(これらのことについては、『民族とは何か』関曠野著・講談社現代新書から学んだ)つまり、司馬の言うような「国家」と「人民(司馬流には国民)」がべったり、同体になるということではない。それは、国家主義の思想である。(扶桑社版の「公民」教科書は、その「国家主義」思想そのものだ)
本来「人民」は「国家」の在り方を常にチェックする存在なのだ。このことは、ルソーが極めて明快に定義しているので、以下に引用しておきたい。

 ルソー『社会契約論』第一篇・第6章「社会契約について」
「―― 構成員についてみると、集合的には「人民(Peuple)」という名称をとり、主権に参加するものとしては個別的に「市民(Citoyens)」、国法に従うものとしては「国民」(ここは翻訳では「臣民」と訳されているが、このルソーの引用文をご指摘された関曠野氏により「国民」と訳す)(Sujets)と呼ばれる。しかし、これらの名称はしばしば混同され、互いに取り違えられている。それがきわめて正確に使い分けられるとき、区別することができればよい。」

PEOPLEを「国民」と翻訳した政府側の意図について

 この「人民」と「国民」の混同が、「教育基本法」や「憲法」の問題にもつながってくる。
たとえば、「教育基本法」の文言の主語だが、第3条は「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであってーー」とある。ちなみに、この部分の英訳は「The people shall all be given equal opportunities of receiving education according to their ability,------」となっている。すなわち、「people」を「国民」と訳しているわけだ。しかし、これだと、奇妙なことがおこってくる。日本に居住する「外国人」の人々、たとえば、在日朝鮮・中国の人々や移民のブラジルの人々の子ども達には、教育の権利はないのだろうか?(この点は、朝日新聞「私の視点」11月2日朝刊で東海大学の小貫大輔さんが詳細に論じている)ということである。
このことは、現行憲法にもあてはまる。「主権は国民に存する」と前文で明記し、第10条で「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」として、11条で「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられないーー」とある。これだと、誰にでもあるはずの「基本的人権」が「法律で決められた「国民」」にしかないことにならないだろうか?ちなみに、国際人権規約などの「国際人権法」は当然、主語は「人民」だ。実は、現行憲法制定過程の研究で、この問題は、GHQ側の憲法案を日本政府が和訳したときに、person やpeople の翻訳を意図的に変更し、「国民」という訳語にこだわったためということが分かっている。(『憲法制定史』竹前栄治・岡部史信著、小学館文庫。などを参照)
そして、その理由は、当時の在日朝鮮・台湾の人々への差別的意識からだということも同時に明確化されている。この基本的人権に関する文言の主語は(人民という言葉がなじみがないとすれば)、当然、「すべての人々は」とか「何人も」とかになるだろう。
 本当は、上記のようなことを「教育現場」に即して「教育基本法」の問題として国会で議論すべきなのだ。

このように、司馬がごまかした「国民」と「人民」の問題は根深い問題であり、そのことを、私達は深く考える必要がある。

韓国憲法は、どうして「国民主権」と書かれているのか?

お隣の韓国の憲法も、実は、「国民主権」であって「人民主権」ではない。そのことについて、韓国の歴史学者、韓洪九(ハン・ホング)氏の「韓国現代史」(平凡社)の文章を最後に引用してこの稿を次回に続けたい。特に次回は、「愛国心」などというものが「教育法規」に法定化することが妥当なのか?ということや「愛国心」と「愛郷心」の違いなどについて考えたい。特に「国家主義」的な思考のもとでの「愛国心」は、まさに「国家」と「国民」が一体化する危険な思想を生むことを論じていく。

「--わが国に存在するのは、国家優位のにおいがする国民だけであって、国家といえどもむやみに侵すことのできない自由と権利の主体を意味する「人民」は存在しません。もともと大韓民国憲法が制定されるときの草案には、「人民」となっていたのに、李承晩の忠僕ユンユチヨンが憲法審議の過程で、共産党が好んで使う「人民」という言葉を使おうとする輩の思想は疑わしいと言って、「国民」に変えられたのです。--」
(「韓国現代史」p27)

 やはり、李承晩政権の反共の影響で、「国民主権」になっていたのだ。しかし、こういうことも日本ではほとんど知られていない、か、または無視されているのではないだろうか。

(この稿続く。この原稿は教育基本法改正前に記したものである。)

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プロフィール

白崎一裕

Author:白崎一裕
1960年生まれ。とちぎ教科書裁判(現在のところ結審しているので元)<本人訴訟>原告。今後の裁判を準備中、反貧困ネットワーク栃木共同代表、ベーシックインカム・実現を探る会代表。

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