とちぎ教科書裁判通信

大田原市の扶桑社版歴史・公民教科書採択取り消し裁判の私的記録集

2017-09

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『グローバリズムの終焉~~経済学的文明から地理学的文明へ』関曠野・藤澤雄一郎著、月刊ボランティア情報2014年5月 市民文庫書評

『グローバリズムの終焉~~経済学的文明から地理学的文明へ』シリーズ地域の再生3巻
関曠野、藤澤雄一郎著 農文協 定価2600円プラス税

評者 白崎一裕

評者は、1980年代半ばから90年代前半まで、不登校やヤンキーの子どもたちのくる私塾をやっていた。その頃の子どもたちの口癖のひとつに「将来のことなんて聞くんじゃね~~」という悪態があったものだ。彼ら・彼女らにとっては将来や未来のことなんて鬱陶しくて抑圧的なものであり、未来がいまより良くなるということは信じられなかったのだ。また、その当時聞いたことだが、定時制高校教師の勉強会で出る話の中に、生徒たちが教師のことを「このジジイ!」とか「このババア!」とか攻撃的に呼ぶようになるのが、ほぼ同時多発的でしかも1975年頃からというのである。本書で何度もとりあげられるニクソンのドルショックが1971年、ローマクラブ報告『成長の限界』の公刊は1972年。そしてオイルショックが1973年と続く。先に述べた1970年代の「子どもたちの変容」と本書で指摘されているドルと石油の二つのショックによる成長経済の終焉は、単なる偶然とは言い難い同時性を有している。近代資本主義の終わりの始まりを子どもたちの感性は鋭敏に捉えていたと解釈すべきではないだろうか。「子どもたちの変容」は、その後80年代から90年代へむかうにつれて、校内暴力・いじめに加えて、不登校・引きこもりという現象を伴い継続していく。これらは、単なる青年期の病理現象を超えて現在では普遍化され、草食系とかサトリ(悟り)世代とか呼ばれるようになってきている。「24時間戦えますか」というサラリーマン向け栄養ドリンクのコマーシャルは、発表された当時から、バブル期のサラリーマンをパロディ化するものでもあったが、現代では、まったくの死語といってよいだろう。子ども・若者の感性レベルでは確実に成長経済は終わっているのだ。

本書では、成長経済をもたらしてきた資本主義の歴史が、コロンブスの航海によるグローバル化を伴ってはじまり、新大陸アメリカの広大な国土と資源を「タナボタ」的に手にいれることによりその資本主義が軌道にのったことが説明されている。この資本主義は、結局のところ大衆の消費欲に支えられた過剰発展と所得不足による矛盾をかかえているのだが、その過剰発展を支えているのが、銀行が生み出す利子付き負債マネーと19世紀には石炭、そして、圧倒的なエネルギー収支の効率の良さをもつ20世紀の石油という化石燃料だった。しかし石油危機やその後のピークオイルにより成長経済はあきらかに行き詰まり、それを仮想現実的に埋め合わせようとして金融マネーゲームが介入するというのが1980年代以降における資本主義成長経済の最後の悪あがきだったというべきだろう。ただ、本書は、単に資本主義的成長経済の終焉を分析しているだけの書物ではない。ポスト成長経済(資本主義)のための見通しをしっかりと提示している。その方法こそが、ダグラスの社会信用論を発展的に受け継いだ、銀行経済から脱却する政府通貨の発行と、過剰発展と過少消費の矛盾を解消する個人単位・無条件のベーシックインカムの実施なのである。これらの制度改革により、冒頭に述べた若者の成長経済への感性的違和感は、その出口と着地点を「農」的暮らしを基盤とした「人間を人間の本分に即して保全する文明」へ求めることとなるだろう。従来からの資本主義批判とエコロジー的環境主義は、お互いがその抽象性から成長経済後の世界を展望することができなかった。しかし、本書は、通貨とエネルギーの問題点を歴史的に総括することにより具体的で実践的な道筋を私たちに提示してくれる。本書が呼びかける提言、すなわち成長経済と資本主義そして化石燃料を消尽する経済学的文明から、地理学・生態学・熱力学の科学的洞察に立脚してエントロピーの抑制を課題にする地理学的文明への転換こそ、実は最も先鋭的な政治的課題であることを最後に付け加えておきたい。

「ボランティア情報2014年1月号」 市民文庫書評 『エネルギーと公正』イヴァン・イリッチ著

『エネルギーと公正』イヴァン・イリッチ著 大久保直幹訳 晶文社 定価1200円(絶版・ネット古書入手可能)

評者 白崎一裕

「社会主義は自転車で到来する」。冒頭に掲げられたこのエピグラフにこそ、本書の本質はよく言い当てられている。しかし、間違ってはいけない、社会主義が問題ではないのだ。実際、著者のイリッチは資本主義と同時に社会主義も工業化した産業社会の一つとして容赦なく批判している。私たちの未来は、自転車の速度で到来する社会となるだろう、ということが重要なのだ。エネルギーをどのように使うか?そして、どのようにエネルギーを社会の中で位置づけていくか?ということを自転車の速度に置き換えて考えてみようという提言に他ならない。
 
 私たちの社会が高度消費社会と言われるようになって久しい。しかし、その消費社会は、もちろん歴史的存在であり永遠の昔から存在していたわけでない。高度消費社会を根底のところで支える資本主義は、すでに19世紀後半から20世紀前半にかけて行き詰まりをみせていた。それを救ったのが燃える水、石油だ。ドレーク大佐が1859年8月にペンシルベニア州タイタスビル近くのオイル・クリークで採掘を始めた油田は、その後、内燃機関と結びつき、自動車の大量生産と共にモータリゼーション社会の到来をもたらす。石油こそエネルギー効率においてもっともすぐれたものであり、無から有を生む存在といっても過言ではない。

このタナボタ的エネルギー源が資本主義をオイル資本主義に変容させて延命させたのだ。オイル資本主義は、「大量に・速く」ということを至上命題として現在の消費社会を生み出した。原発ですら、発電タービンを回す動力部分において核エネルギーを使用するだけで、そのインフラはすべて石油を基にして動いており、石油なしには核燃料の運搬さえできない構造となっている。
 
 イリッチは、この大量のエネルギーを使ってきた石油文明を移動の速度という概念を用いて批判する。エネルギー消費が一定の境界を超えると、交通は「運輸産業」となり、高速道路が発達して人々の居住のあり方を変え、隣り合って暮らしていた人々の間にくさびを打ち込むようになる。人々の暮らしは、移動の速度の増大に依存するようになり産業的管理社会が奴隷化した人間存在を生み出す。いかなる社会もその政治体制や文化が必然的に退廃していくというのだ。加えてイリッチは、退廃に対抗するためにクリーンな自然エネルギーを用いてもエネルギー消費量を減らさない限り結果は同じことになると述べている。

エネルギー中毒ともいえる大量消費は、社会の中に存在する人間を制度に従属する受身なものとしてしまい、参加の民主主義という政治形態が失われると警告を発している。人々の公論により生き生きとした地域社会を創造する政治文化を取り戻すためには、エネルギーの大量消費を超えていかなければならない。このことは、現在の機能不全化した大衆民主主義を作り直すヒントにもなる。イリッチの提言を評者なりに言い換えると地域分散型小規模エネルギー共同体こそが、自転車の速度による参加民主主義への近道ということになるだろうか。脱学校化論や脱病院社会を提案して1970年代~80年代に思想界で存在感を示していたイリッチの評論を現在の状況に置き換えて再読する意味は大きい。尚、翻訳には、「創造的失業の権利」という刺激的な論文も合わせて掲載されている。

~~~~~~~~~~~~~~ 以上 ~~~~~~~~~~~~

月刊ボランティア情報 VOL 202 市民文庫書評 『心的外傷と回復』

『心的外傷と回復』<増補版>
ジュディス・L・ハーマン著 中井久夫訳 みすず書房 定価6800円+税

評者 白崎一裕

本書は、PTSD(外傷後ストレス障害)Posttraumatic stress disorder の理論と治療に関する古典的名著である。しかし、読者は、PTSDの心理療法の学術書であると勘違いしてはならない。20世紀最大の批評家ともいえるヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』を継ぎ、その思想的地平を超える視点を有した「暴力批判」のための実践的思想書なのである。

PTSDという言葉は、阪神・淡路大震災以来、頻繁にマスコミ報道に登場し東日本大震災の3・11以後は、ほぼ日常語というレベルになっている。ただ、言葉が日常化してもその背景にある問題を人々が深く認識しているかどうかは別のことだ。

近代国家は、個人個人の暴力性を、社会契約によりつくられた国家に委託して法の下に一元的に管理するようになった。その結果生まれてきたのが、警察やシビリアンコントロール化にある軍隊などである。これらの暴力装置の運用については、現在でも様々な課題があるが、一応、法の支配の下で市民のセキュリティのために運用されるシステムになってきた。しかし、我々は、上記の近代国家における暴力装置において暴力を克服したといえるだろうか?とんでもない!と読者は思うだろう。世界規模でおきる内戦・民族対立や、いまや純粋な天災とはよべない人類の社会活動のからむ疑似天災(風水害・地震等)にはじまり、本書で中心課題となっている性暴力や家庭内暴力に至るまで、複雑化・潜在化する暴力の連鎖がいたるとろに現象している。この暴力の犠牲者がPTSDにさらされる。そのサバイバー(生存者)たちは、どのように生きていけば良いのか?ハーマンは「心的外傷を研究することは、自然界における人間の脆さはかなさを目をそむけずに見つめることであると同時に、人間の本性の中にある、悪をやってのける力と対決することである。」と言っている。冒頭に本書を心理療法の学術本ではないと断言した根拠がここにある。本書は抑圧された者たちが闘うための作品として生まれてきたのだ。19世紀以来三度の政治的・社会的運動がPTSD調査を活発にしてきた。一つ目は、19世紀後半のフランスカトリック教会の教育・医療の支配に反対する共和派の中から女性の心的障害(ヒステリー)研究として、二つ目は、第一次大戦からベトナム戦争にいたるまでの戦争神経症研究などから、そして第三に、1960年代後半からのフェミニスト運動における性的暴力と家庭内暴力の告発である。これら反権威・反戦・反性差別の歴史的遺産を統合し一つにして現在のPTSDについての基本理解が形成されてきたのだ。

暴力批判は「公的世界と私的世界、個人と社会、男と女などのつながりを取り戻すこと」のなかから生まれてくると本書は言う。「レイプ後生存者、戦闘参加帰還兵、被殴打女性、政治犯、政治的強制収容所生存者、家庭支配の暴君から逃れた生存者」(本書序文より)、そして暴力を無化しようとする全ての人々への生きた言葉と方法がここにはある。

ボランティア情報2013年5月号「市民文庫書評」

『OUT(アウト)』桐野夏生著 講談社文庫、上巻667円・下巻619円(税別)

評者 白崎一裕

無意味で苦痛しかない人生を人は生きることができるのか?ニーチェが生涯を賭けて追及した課題の回答の片鱗が本書にはある。しかし、作者は決してこの問いを暮らしから遊離した形而上的な問いにはしていない。

物語は東京郊外にある深夜の弁当工場から始まる。この工場へパート労働に通う4人の女たちが物語の主人公である。作者は、別作品『メタボラ』でも若者を中心とする派遣労働の現場を濃密に描写していたが、本書においても弁当工場の労働現場のリアルさが際立つ。労働は社会の参加を促し自立した尊厳ある生活の基盤となる~~、このような労働観を信じている人もたくさんいるだろう。しかし、4人の女たちには「午前零時から朝五時半まで延々と休みなく、ベルトコンベアで運ばれる弁当を作り続けなければならない」出口のない労働現場なのだ。作品の中心人物、香取雅子には次のように述懐させている。「新青梅街道から流れてくる排気ガスに混じって、揚げ物の油臭い匂いが微かに漂っていた。これ
から雅子が出勤する弁当工場から来る匂いだ。《帰りたい》この匂いを嗅ぐと、この言葉が思い浮かぶ。」しかし、帰りたい場所は、彼女たちにはどこにもないのだ。「家庭崩壊」「DV(ドメスティックバイオレンス)」「高齢者介護問題」「女性差別」「貧困」等々の彼女たちを取り巻く人生の困難さが、彼女たちを、この出口のない弁当工場にしか居場所がない存在にしていく。弁当工場は、現代という時代の困難さをすべて凝縮・集積した象徴的存在なのだ。

その主人公たちが、この出口なしの労働現場から脱出する事件に遭遇する。その事件とは「死体解体」という犯罪である。なぜ、彼女たちは、この恐るべき犯罪に手を染めることとなったのか?作者は、その回答を作品の中で提示してない。犯罪の動機は主人公たちにも「よくわからない」のだ。しかし、この「よくわからなさ」こそが現代という時代を表現しているというべきだろう。そして、この現代を生き抜く範型として作者は、香取雅子という人物を登場させている。雅子は、死体解体犯罪をリードして仲間をまとめ上げ・擁護して仕事をすすめる。彼女には、安易な希望も絶望も見出すことができない。

冒頭に紹介したニーチェは、自らの無意味で苦痛しかない人生を、あらゆるものに頼ることなくその丸ごとの存在として引き受け立ち向かう人間像を提案した。雅子の存在はそれに近い。この物語の最終場面で読者は、許されない犯罪を犯したという事実を超越して、雅子の生き方から限りない勇気を与えられるだろう。「現代」というとてつもない魔物に立ち向かう勇気を。

「月刊ボランティア情報 2013年1月号・市民文庫書評」

『「尖閣問題」とは何か』豊下樽彦 著 岩波書店 定価1,020円

評者 白崎一裕

尖閣諸島などの領土問題というと強烈な政治的課題で話題にする事を避ける傾向もあるかもしれない。しかし、経済のグローバル化の影響で、もの・ひとの交流は近隣諸国をはじめ世界各地とも絶えることがない。一般市民としても、領土問題を含む主権の課題をどのように考えるべきなのか、思考の整理をしておくことが必要だろう。戦後日本の政治体制は、基本的にアメリカ占領下の延長にあり、冷戦時代も東西冷戦終了後もアメリカ世界戦略の枠組みの中で外交・主権問題を考えておけばよかった。しかし、アメリカ覇権とドル通貨体制のゆらぎが、これまでのお気楽な日本の立場を変えることとなった。換言すれば、高度経済成長期の延長で商売と政治は別物という、これまでのスタンスが簡単には通用しなくなる事態になってきたということだ。

この原因は、歴史に学ぶのが一番。著者は、同じ第二次大戦敗戦国のドイツの場合と比較をする。ドイツにとって「過去の克服」はヨーロッパという国際社会に再び「復帰」できるかどうかの分水嶺であり、自らの力でこの課題をクリアしていったドイツは、その後ヨーロッパ統合の軸に座ることになる。ところが日本の場合は、自らの努力で「過去の克服」をおこなって東アジアの国際社会に「復帰」するという課題に取り組む前に、アメリカの冷戦戦略のなかで「国際社会」に「復帰」を果たすこととなったのである。加えて、パートナーシップをとるべき東アジアの近隣諸国は、日本の植民地支配を受けた国々でもあるということが問題を複雑化させている。

これらの歴史的視座に立ち戻って考えると、領土問題の本質がみえてくる。それは、著者が米国ファクターとよぶ対米従属外交のなかで、日本が主体的な外交を放棄していることからくる問題だということだ。これを超えていくために日本は、第二次大戦の教訓から国際法の発展を志向する戦略をとり、すべての近隣諸国およびアメリカ、中国などの大国に対しても「中立・主体的」な対外的位置を確保しなければならない。

著者は、次のように提言にしている。急速な勢いで大国になって「大国ナショナリズム」に煽られやすく国際社会で如何にふるまうべきか学習過程にある中国と、戦後の長きにわたって「超大国」としての地位にあった幻想にとりつかれ「単独行動主義」をとるアメリカという二大大国の狭間に、日本は存在している。その日本は、韓国やロシア、ASEAN諸国との提携を深めるなかで二大大国の「単独行動主義」を抑え込む平和原則を国際社会のルール(国際法)として確立していく努力をすべきだというのである。最後に著者が具体例としてあげている米国ファクターのひとつを紹介しておこう。尖閣諸島は魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島の五島からなるが、最後の二島(久場と大正)は、アメリカ軍の「射爆撃場」としてアメリカ軍の管理下にあり日本人が立ち入れないようになっている。しかし、この二島でのアメリカ軍の訓練使用は1979年以来おこなわれていない。それにもかかわらず、この二島について日本政府はふれないようにしている~~~。さて、読者のみなさんは、このことをどう考えるだろうか。

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プロフィール

白崎一裕

Author:白崎一裕
1960年生まれ。とちぎ教科書裁判(現在のところ結審しているので元)<本人訴訟>原告。今後の裁判を準備中、反貧困ネットワーク栃木共同代表、ベーシックインカム・実現を探る会代表。

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