とちぎ教科書裁判通信

大田原市の扶桑社版歴史・公民教科書採択取り消し裁判の私的記録集

2017-08

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ピケティ『21世紀の資本』ブームの落とし穴について (ベーシックインカム・実現を探る会メルマガより転載)

BIメールニュース臨時号  2015.2.7発行

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ピケティ『21世紀の資本』ブームの落とし穴について
                            代表 白崎一裕

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 いま、マスコミと出版界で話題となっている、経済学者トマ・ピケティの『21
世紀の資本』だが、私は、以前からピケティにはおおいに批判的である。その理由
は、簡単に言えば、銀行マネーと金融資本に関する分析が不十分!という点にある。
また、ピケティは、経済成長が前提となっており、その点の現状認識も間違ってい
ると思う。もし、私に、万が一暇な時間があれば、彼の論理を批判することにしよ
うと思う。が、しかし、そんな時間もなさそうなので、気がついたところから疑問
を出しておきたい。

 時事通信の2015年1月31日配信の記事「消費増税より若者優遇を=格差解
消訴え─ピケティ氏会見」によれば、来日したピケティは、『質疑応答で、「万人
に課す消費税(率)を上げても、あまり良い結果を生んでいない。日本の財政再建
は、高所得層に高税を課したり、富を持たない若者や中低所得層の所得税を引き下
げたりする取り組みが優先事項だ」と語った。』ということらしい。このなかで、
問題なのは、「若者や低所得者の所得税を引き下げる取り組み」という部分のとこ
ろだ。消費税率アップを批判するのはいいだろう。高所得者の資産課税も、まあ、
いいだろう。が、しかし、若者を含む低所得層の課税引き下げがいったいどれほど
の効果をもたらすのだろうか?ここ10年ほどの、大きな課題は、ワーキングプア
層の拡大であることは読者もご存知だろう。生活保護水準にも満たない所得しかな
い層の拡大である。課税総所得195万円以下の金額の所得税は5%とある。年間
97,500円であり、一月あたり8,125円である。これをすべて非課税にする
としよう。もちろん税金は少ないほうがいいに決まっている。しかし、この「減税」
がどれほどの購買力の増加を生むのか疑問だ。ちなみに、ベーシックインカムなら
月8万円~15万円の所得保証になる。これに対して、富裕層からの課税分を「社会
保障費」に回して若者・低所得者の底上げにつなげればいいだろう、というかもし
れない。しかし、複雑な制度認定で行政から支給される各種社会保障費にどれほど
の効果があるか、これまた疑問である。

 ピケティが批判する富の格差は、銀行を中心とする金融システムから生じている
マネーの機能不全が原因で拡大しているのだ。また、拡大のみならず、銀行マネー
社会は社会全体を破壊してしまう危険性を有している。これら諸問題は、ピケティ
の提案する累進性の強化や税制改革ではとても解決できない。ここは、通貨改革に
よりマネーシステムを変革して、政府通貨を発行し、その一部をベーシックインカ
ムにあて、また、他の部分で社会保障政策などの公的事業に使っていくということ
が必須なのである。みなさん、決してフランスのエリート学者、ピケティにだまさ
れてはいけない!

月刊ボランティア情報、市民文庫・書評『自然法』ダントレーヴ 著 久保正幡訳 岩波書店

『自然法』A.P. ダントレーヴ 著 久保正幡訳 岩波書店 定価(本体2400円+税)

評者 白崎一裕

現在の安部政権は、様々な掟破りをおこなっている印象がある。そのなかでも特に際立ったのが集団的自衛権の閣議決定だ。集団的自衛権を認めるにせよ認めないにせよ、憲法解釈を行政権の一部である内閣がおこなうということには重大な問題がある。憲法解釈の権利があるのは、三権分立において司法のトップである最高裁に限られているはずだ。それを無視するということは、憲法を完全に停止してしまったに等しい。歴史的には第二次大戦直前のナチスが全権委任法を制定し、憲法を停止してヒトラー内閣の立法的優位をあたえた論理と同じである。ここで注意してほしいのは、ヒトラーと同じ行動だから現在の日本がファシズムになっていると言いたいわけではない。重要なのは、日本の近現代史の中で憲法が憲法 として広く国民の中に浸透して機能してきたか、ということを問いたいのだ。憲法とは何なのか?法とは何なのか?今一度、じっくり考え直してみようではないか。そんな意味で取り上げたのが本書である。

そもそも、なぜ「法」が必要なのか。人間は、社会的存在でなんらかの集団を形成していく存在だが、個人個人はなかなか、折り合いのつかない分かり合えない存在である。たとえ、善意で行動しても人間関係には思わぬトラブルの種が潜んでいることが多い。個人と個人の関係をスムーズに進め社会をつくっていくためにはお互いの人間関係を調整する何らかの規範が必要となる。しかも、それぞれの個人が納得してその規範を支持して従う基盤がなければならない。これこそが「法の精神」であり「法という文化」である。法は、けっして懲罰的な決まり事ではなく、自由や尊厳が生まれる文化的根拠なのだ。身近なたとえ話をしよう。交差点の信号機は、赤は止まれ、青は進めというように決められている。ここで、「俺は決まりごとなんか嫌いだから、信号なんて意味がない。自由に進ませてもらう」と信号を守らないとしよう。そうすると信号規則を守る人とそれぞれの行動がバッテイングして、「俺」の「自由」が保たれなくなる。自由を選択したつもりが、信号規則(法)を無視することにより、自由が損なわれる逆説的なことがおきてくる。信号規則があることにより交差点の進入がスムーズにおこなわれ、行動の自由が保障される。まさに、法があるから自由が生まれるということだ。

憲法は、その法のなかでも、国家がつくる法(実定法)のありかたを決める最高法規だ 。これを「憲法は実定法を制限する」というが、この憲法と実定法のありかたの原型が自然法と実定法の関係に重なる。まず自然法という言葉が聞きなれないだろう。しかし、立憲主義を生み出してきたヨーロッパの政治思想の根幹にこの自然法があり、法思想史的には、ローマ法や中世の教会法に自然法の源流が求められる。たとえば、中世ヨーロッパでは教会法が自然法の根拠とされ、教会法は聖権として俗権である王権などを制限していた。自然法は、法の根拠を示し、法とは、人が誰でも保有する道徳的な感性に基づいていることを示している。自然法がなければ法の存立根拠が失われてしまうのだ。

世界史で必ず習うフランス人権宣言は、正確には「人および市民の権利宣言」(1789年)と言う。なぜ、「人」と「市民」の二つの言葉が重なっているのか?人としての譲り渡すことのできない自然な権利(自然法による)をもつ「人」が、法のもとで権利を行使し義務をはたす「市民」として存在しているという意味で二重の意味が重ねられているのだ。自然権としての人権は、法により保障されなければならない。それこそが立憲主義の本義だ。しかし、冒頭に述べた政治の流れは、その本義を無視している。一体、私たちの憲法と人権はどこへ行くのだろうか?

『グローバリズムの終焉~~経済学的文明から地理学的文明へ』関曠野・藤澤雄一郎著、月刊ボランティア情報2014年5月 市民文庫書評

『グローバリズムの終焉~~経済学的文明から地理学的文明へ』シリーズ地域の再生3巻
関曠野、藤澤雄一郎著 農文協 定価2600円プラス税

評者 白崎一裕

評者は、1980年代半ばから90年代前半まで、不登校やヤンキーの子どもたちのくる私塾をやっていた。その頃の子どもたちの口癖のひとつに「将来のことなんて聞くんじゃね~~」という悪態があったものだ。彼ら・彼女らにとっては将来や未来のことなんて鬱陶しくて抑圧的なものであり、未来がいまより良くなるということは信じられなかったのだ。また、その当時聞いたことだが、定時制高校教師の勉強会で出る話の中に、生徒たちが教師のことを「このジジイ!」とか「このババア!」とか攻撃的に呼ぶようになるのが、ほぼ同時多発的でしかも1975年頃からというのである。本書で何度もとりあげられるニクソンのドルショックが1971年、ローマクラブ報告『成長の限界』の公刊は1972年。そしてオイルショックが1973年と続く。先に述べた1970年代の「子どもたちの変容」と本書で指摘されているドルと石油の二つのショックによる成長経済の終焉は、単なる偶然とは言い難い同時性を有している。近代資本主義の終わりの始まりを子どもたちの感性は鋭敏に捉えていたと解釈すべきではないだろうか。「子どもたちの変容」は、その後80年代から90年代へむかうにつれて、校内暴力・いじめに加えて、不登校・引きこもりという現象を伴い継続していく。これらは、単なる青年期の病理現象を超えて現在では普遍化され、草食系とかサトリ(悟り)世代とか呼ばれるようになってきている。「24時間戦えますか」というサラリーマン向け栄養ドリンクのコマーシャルは、発表された当時から、バブル期のサラリーマンをパロディ化するものでもあったが、現代では、まったくの死語といってよいだろう。子ども・若者の感性レベルでは確実に成長経済は終わっているのだ。

本書では、成長経済をもたらしてきた資本主義の歴史が、コロンブスの航海によるグローバル化を伴ってはじまり、新大陸アメリカの広大な国土と資源を「タナボタ」的に手にいれることによりその資本主義が軌道にのったことが説明されている。この資本主義は、結局のところ大衆の消費欲に支えられた過剰発展と所得不足による矛盾をかかえているのだが、その過剰発展を支えているのが、銀行が生み出す利子付き負債マネーと19世紀には石炭、そして、圧倒的なエネルギー収支の効率の良さをもつ20世紀の石油という化石燃料だった。しかし石油危機やその後のピークオイルにより成長経済はあきらかに行き詰まり、それを仮想現実的に埋め合わせようとして金融マネーゲームが介入するというのが1980年代以降における資本主義成長経済の最後の悪あがきだったというべきだろう。ただ、本書は、単に資本主義的成長経済の終焉を分析しているだけの書物ではない。ポスト成長経済(資本主義)のための見通しをしっかりと提示している。その方法こそが、ダグラスの社会信用論を発展的に受け継いだ、銀行経済から脱却する政府通貨の発行と、過剰発展と過少消費の矛盾を解消する個人単位・無条件のベーシックインカムの実施なのである。これらの制度改革により、冒頭に述べた若者の成長経済への感性的違和感は、その出口と着地点を「農」的暮らしを基盤とした「人間を人間の本分に即して保全する文明」へ求めることとなるだろう。従来からの資本主義批判とエコロジー的環境主義は、お互いがその抽象性から成長経済後の世界を展望することができなかった。しかし、本書は、通貨とエネルギーの問題点を歴史的に総括することにより具体的で実践的な道筋を私たちに提示してくれる。本書が呼びかける提言、すなわち成長経済と資本主義そして化石燃料を消尽する経済学的文明から、地理学・生態学・熱力学の科学的洞察に立脚してエントロピーの抑制を課題にする地理学的文明への転換こそ、実は最も先鋭的な政治的課題であることを最後に付け加えておきたい。

「ボランティア情報2014年1月号」 市民文庫書評 『エネルギーと公正』イヴァン・イリッチ著

『エネルギーと公正』イヴァン・イリッチ著 大久保直幹訳 晶文社 定価1200円(絶版・ネット古書入手可能)

評者 白崎一裕

「社会主義は自転車で到来する」。冒頭に掲げられたこのエピグラフにこそ、本書の本質はよく言い当てられている。しかし、間違ってはいけない、社会主義が問題ではないのだ。実際、著者のイリッチは資本主義と同時に社会主義も工業化した産業社会の一つとして容赦なく批判している。私たちの未来は、自転車の速度で到来する社会となるだろう、ということが重要なのだ。エネルギーをどのように使うか?そして、どのようにエネルギーを社会の中で位置づけていくか?ということを自転車の速度に置き換えて考えてみようという提言に他ならない。
 
 私たちの社会が高度消費社会と言われるようになって久しい。しかし、その消費社会は、もちろん歴史的存在であり永遠の昔から存在していたわけでない。高度消費社会を根底のところで支える資本主義は、すでに19世紀後半から20世紀前半にかけて行き詰まりをみせていた。それを救ったのが燃える水、石油だ。ドレーク大佐が1859年8月にペンシルベニア州タイタスビル近くのオイル・クリークで採掘を始めた油田は、その後、内燃機関と結びつき、自動車の大量生産と共にモータリゼーション社会の到来をもたらす。石油こそエネルギー効率においてもっともすぐれたものであり、無から有を生む存在といっても過言ではない。

このタナボタ的エネルギー源が資本主義をオイル資本主義に変容させて延命させたのだ。オイル資本主義は、「大量に・速く」ということを至上命題として現在の消費社会を生み出した。原発ですら、発電タービンを回す動力部分において核エネルギーを使用するだけで、そのインフラはすべて石油を基にして動いており、石油なしには核燃料の運搬さえできない構造となっている。
 
 イリッチは、この大量のエネルギーを使ってきた石油文明を移動の速度という概念を用いて批判する。エネルギー消費が一定の境界を超えると、交通は「運輸産業」となり、高速道路が発達して人々の居住のあり方を変え、隣り合って暮らしていた人々の間にくさびを打ち込むようになる。人々の暮らしは、移動の速度の増大に依存するようになり産業的管理社会が奴隷化した人間存在を生み出す。いかなる社会もその政治体制や文化が必然的に退廃していくというのだ。加えてイリッチは、退廃に対抗するためにクリーンな自然エネルギーを用いてもエネルギー消費量を減らさない限り結果は同じことになると述べている。

エネルギー中毒ともいえる大量消費は、社会の中に存在する人間を制度に従属する受身なものとしてしまい、参加の民主主義という政治形態が失われると警告を発している。人々の公論により生き生きとした地域社会を創造する政治文化を取り戻すためには、エネルギーの大量消費を超えていかなければならない。このことは、現在の機能不全化した大衆民主主義を作り直すヒントにもなる。イリッチの提言を評者なりに言い換えると地域分散型小規模エネルギー共同体こそが、自転車の速度による参加民主主義への近道ということになるだろうか。脱学校化論や脱病院社会を提案して1970年代~80年代に思想界で存在感を示していたイリッチの評論を現在の状況に置き換えて再読する意味は大きい。尚、翻訳には、「創造的失業の権利」という刺激的な論文も合わせて掲載されている。

~~~~~~~~~~~~~~ 以上 ~~~~~~~~~~~~

「社会臨床雑誌第21巻第2号」論文掲載

社会臨床雑誌に『「みんな原発事故の被害者」が運動の原理か?~福島原発告訴団にかかわっての私的運動論~」を書きました。以下のHPには、まだ、情報掲載されていませんが、現代書館で購入できます。

社会臨床雑誌

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プロフィール

白崎一裕

Author:白崎一裕
1960年生まれ。とちぎ教科書裁判(現在のところ結審しているので元)<本人訴訟>原告。今後の裁判を準備中、反貧困ネットワーク栃木共同代表、ベーシックインカム・実現を探る会代表。

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